
散歩が好きだ。電車に乗って東京都心へと繰り出し、カメラ片手に気ままにぶらぶらと歩く。
目的地は決めない。地図もあまり見ない。交通網が発達した東京都心――特に山手線の内側――では、「ここどこ〜!?」と途方に暮れることはそうそうない。たとえ入り組んだ住宅地の奥深くに迷い込んだとしても、10分も歩けばどこかしらの駅に行き当たる。
閑静な住宅街にいたはずが、いつの間にか駅前の喧騒に飲まれ、次の瞬間にはビル群に囲まれていた――なんてことも珍しくない。地図を見ずとも「おっ、なんか雰囲気変わったな」とわかるほど、「街」の境界がはっきりしている。目まぐるしく景色が変わるこの街は、どれだけ歩き回っても飽きることはない。
そんな「街歩き」を長年の趣味としてきた自分にとって、昨今のVlogブームは、控えめに言って最高だ。
中でもVlogを投稿するVTuberはここ1、2年でかなり増えた印象があり、自然と動画が目に入る。見覚えのある路地が映ると「そこ歩いた〜!」と親近感を覚え、逆に知っている街でも知らない場所が出てくると「なんそれ!? 今度探してみよ!」という気持ちになり、いずれにせよ楽しい。未知の道と出会えるVlogは、最高に刺激的なコンテンツなのだ。道だけに。道との遭遇。はい。
そんなVlogを投稿しているVTuberの中でも、比較的知るのが早かったのが、敷嶋てとらさんだ。2023年にVRChat繋がりで動画を拝見するようになり、沖縄Vlogを見て「いいなー!」と羨ましがったり、その後投稿されたおすすめ漫画の動画に「わかる」と共感したりしていた。
――というわけで前置きが長くなりましたが、そんなてとらさんがこの度、初めてのエッセイを刊行されたのだとか!(おめでとうございます!) ありがたいことに献本をいただきましたので、簡単ではありますが、今回はその読んだ感想をつらつらと書かせていただきます。
VTuberのエッセイという枠を超えた、上質で自然体な一冊

けいろーこんなん読んだら、もっともっと“敷嶋てとら”というVTuberのことを好きになってしまうのでは〜!?
最初に浮かんだのは、そんな感想だった。そのくらい本書では、彼女自身の過去とパーソナルな話題にもたっぷり言及されている。「VTuberのエッセイ」と聞くと、どこまでメタな話をしているのか気になる人もいるかもしれないが、「思ったよりもがっつり話していて驚いた」というのが率直な感想だ。
子供の頃の“少女敷嶋”時代の思い出はもちろんのこと、上京後に住んでいた街や仕事の話についても思いのほか具体的に書かれている。そういえば、途中からは「VTuberのエッセイを読んでいる」という感覚が希薄になっていたかもしれない。そのくらい自然体で、良い意味で「ありふれたエッセイ」として完成されている。そんな印象を受けた。
言い換えれば、この本はファン向けに書かれた「VTuber・敷嶋てとらのエッセイ」にとどまらない。彼女の活動をまったく知らない人が手に取ったとしても、「散歩とビールが好きで、ついでに動画投稿活動もしているディストピアお姉さんのエッセイ」として楽しく読める。そんな本になっているのだ。“ディストピアお姉さん”とは。
未知と「変な視点」が交差する、ひとり街歩きの魅力


1章「ひとり散歩する街」は、一言で言えば、筆者が「散歩はいいぞ」と読者に向けて語りかけている章だ。
正直、この章だけでも「街歩きエッセイ」としてめちゃくちゃおもしろい。同じ散歩好きとして共感ポイントも多く、ニコニコしながら一気に読んでしまった。
大人になると、新しい景色に出会う機会はどんどん減っていってしまう。知っていることが増えているのに、なんだか世界がつまらなくなったような、予想の範囲内のものしかないような気持ちにさせられることが増える。しかし興味のおもむくままに世界に関わっていくと、世界はまだまだ変なものや面白いものであふれているのだと気づく。だから敷嶋は今日も、変なバーガーを探したり、酒が飲める場所を探したりしながら街をふらついている。
敷嶋てとら『ディストピアの片隅で、ひとり缶ビールを開ける』P.40より
「街歩き」の最大の魅力が、まさにこれだと思う。新旧さまざまなものが入り乱れていて、地図には載っていない、受動的なコンテンツ消費からは得られない未知にあふれている。
その性質が特に色濃く現れるのが、「東京」という街だ。「街」あるいは「駅」単位でまったく異なる景色が広がり、根付いた文化もそれぞれに違う。どれだけ足繁く通った街だとしても、しばらくぶりに訪れると、以前は見なかった建物やお店が当たり前のように爆誕している。
そんな「街」と「散歩」の魅力を紐解くだけにとどまらず、そこに筆者ならではの視点が加わっているのも良い。それが、「変なバーガー」「酒が飲める場所」という切り口だ。
「変なバーガーを探しているうちに、敷嶋は『変な視点で街を見ること』ができるようになっていたのかもしれない(P.39)」と書いているように、その人ならではの“変な視点”があると、街歩きは途端に個性的でおもしろくなる。てとらさんや他のVTuberに限らず、人気Vloggerの多くは大なり小なり“変な視点”を持っている。そんな印象がある。
また、個人的にヘドバンする勢いで頷いて共感したくなったのが、彼女の「深夜散歩」に向けられた眼差しだ。
深夜はまるで電源をオフにしたかのようなスローな世界だ。その中をとぼとぼ歩いている自分は、いま本当にひとりだなぁと実感させられる。誰ともつながっていないような感覚になれて、とても落ち着く。
同著P.44より
そう、街歩きは日中も楽しいが、深夜にやっても楽しい。深夜から早朝にかけての澄んだ空気の中、「おれは! 今! ひとりだ!」という、心地の良い孤独感に浸れる。それは、自宅の部屋でひとり作業をしている時には得られない感覚だ。
他方で、深夜散歩では「孤独ではない」ことを実感する場面もある。道路工事をしているみなさんの横を「お疲れさまです……!」と感謝の念を込めて会釈しながら通り過ぎ、とても帰宅途中には見えないワクワク顔のお兄さんを見かけて「同類か……?」と思いつつまた会釈をし、ついでに通りがかった猫ちゃんに「にゃーん?」と話しかけながら会釈をする。
そして、深夜の公園はやたらとテンションが上がる。僕自身、鉄棒にはぶら下がるし、すべり台は滑るし、「ブンブンブンーン!!」なんて言いながらパンダに跨ったこともあった。てとらさんの語る「深夜の公園」のエピソードもおもしろくて笑ってしまったので、詳しくはぜひ本編で読んでみてほしい。
“少女敷嶋”からVTuberへ。人生の「寄り道」を肯定する


2章は、敷嶋重工社員(ファン)必読の章と言って差し支えないだろう。「自由気ままにひとり散歩を楽しむ敷嶋てとら」の原点が垣間見える回想編、それがこの章だ。彼女が過ごした東京の3つの街について語った最初の10ページだけでも、ハチャメチャにおもしろい。
中学3年生の少女敷嶋が夢見た、サブカルチャーの聖地・秋葉原。
進学を機に上京し、“飛空艇”と共に過ごした生活の街・多摩。
週末は河川敷で空を見て過ごしていたという、再就職後の生活拠点・足立。
浪人生活、好きなバンド、就職と転職、そしてVTuber活動を始めたきっかけ。「VTuber・敷嶋てとら」になる前の彼女のパーソナルなエピソードが次々に語られ、「現在」へと繋がっていく。
それも単なる思い出語りで終わらず、「エッセイ」としての強度と読み応えがある。あまりに読み物として完成されているものだから、「もしかしてこれ、どっかの雑誌で連載していませんでした?」と思えてくるほどだった。カルチャー系の雑誌で毎号掲載されていてもおかしくないと感じたし、実際、本書を読んで「敷嶋の文章をもっと読ませてくれ〜!」と感じる人も多いんじゃないだろうか。
中でも刺さったのが、「人生の余白期間を楽しんでいる」と題したエピソードだ。「浪人」と「退職」という大きな挫折の経験について語った後の、最後の一文に痺れた。というか、深く共感した。
あれはたぶん脱線ではなくて、ちょっとした寄り道だったのかもしれないと思うようになった。寄り道の楽しさは、散歩好きの敷嶋がよく知っている。
同著P.64より
心当たりのある人もいるだろうし、今後大きな挫折を経験した時に、この言葉が“お守り”のように感じられる人もいるかもしれない。
旅、ビール、そして熱。敷嶋てとらを形作るカルチャーたち


先ほど「カルチャー系の雑誌で連載されてもおかしくない」と書いたが、続く3、4章はそんな雰囲気がさらに色濃く感じられる内容になっている。
「知らない場所へ、ひとりで」と題した3章は、上質な旅エッセイを何本も味わえる章だ。初めての海外旅行と、その時に撮って投稿した動画きっかけで再訪することになった、香港でのエピソードが語られる。
彼女が旅行で何を見て、聞いて、ひとりでどのように過ごしているのか。Vlogからも垣間見えていた「敷嶋てとら」の目線が、彼女自身の言葉で紐解かれている。個人的には、彼女の「ネタバレ」に対するスタンスにうんうん頷きながら読んでいたら、最後に真逆の考えを示されてひっくり返る体験ができたのが良かった。
最後の4章「ビール・フィクション・感覚」は、文字通りこの3点セットについて語られた章だ。
ここまでの章と比べて劇的に文体が変わるわけではないが、特にビール関係のエピソードは、また違った味わいがあっておもしろい。「もしかしてこれ、飲みながら書いてません?」と一瞬よぎるくらいには、文章が踊っているのだ。
ビールと映画、3章の淡々とした旅エッセイとはまた別の「熱」が漂う文章を経て、最後は筆者の価値観の話で締めくくる。もし紙面に余裕があれば、鹿野所の「お酒」や「創作」についての話をもっとたくさん読みたかった。そう思うほど惹き込まれた章だった。
複雑な世界から「心地よさ」をすくい取る、ディストピアの歩き方


敷嶋てとらは、ディストピアに住んでいるVTuberだ。
現実世界のVlogを投稿しているとはいえ、普段は“バーチャル”な存在として活動している。そんな彼女が、自身の生い立ちやパーソナルな出来事にまで言及している本書は、VTuber的な観点から見れば非常に“メタ”な本だと捉えることもできる。
しかし、この本を読み終えた今の自分は真逆の印象を持っている。メタな要素によって彼女の解像度が上がったというよりは、「ディストピア」という彼女の根底にある世界観を深く理解できたことで、むしろ「VTuber・敷嶋てとら」の強度がより高まったように感じているのだ。
敷嶋にとってのディストピアとは、むしろ巨大で複雑で、どこか矛盾をはらんでいる場所。何かが常に作られ、そして常に壊されている場所のことだ。整いきっていない場所、矛盾を抱えたまま走り続けている街。そのアンビバレントで不安定な状態を、敷嶋は「ディストピア的だ」と呼んでいる。
同著P.32より
複雑なもの。矛盾をはらんだもの。違和感のあるもの。よくわからないもの。そんな“ディストピア的”な要素が散りばめられた東京を、彼女は「歩くのが楽しい街」だと評する。
そして、そのような「複雑で、理解されにくい魅力だからこそ、自分の言葉や動画にして伝えたいと思うのだ(P.34)」とも彼女は語る。冒頭では「ディストピア都市・TOKYO」の魅力として語られたこの言葉は、最後の章で、形を変えて繰り返されることになる。
見えるもの、聞こえてくる音、匂い、空気、温度。自分の感覚で受け取ったものを、あとから動画にしたり、文章にしたり、歌詞にしたりする。誰かに見せるのはそのあとでいい。最初の感覚だけは、自分のものとして独り占めしてみたい。「心地よいことが好き」というのは、世界を自分の感覚で知覚することが好きだ、という意味なのだと思う。
同著P.158より
彼女が行動を選択する際の基準としている、「心地よいかどうか」という視点。それは刹那的な快楽や充足感ではなく、「世界を自分の感覚で知覚する」という能動的な行為が必ず伴うものだ。
それは、画面上に絶えず流れてくるコンテンツを漫然と摂取するだけでは得られない。複雑で、矛盾をはらんだ、違和感のあるものを、己の五感によって知覚し、物思いに耽り、手を動かすことでしか味わえない「心地よさ」。
矛盾だらけの世界(=ディストピア)を愛し、そこから自分だけの「心地よさ」を見つけ出す。それこそが、Vlogや音楽、独自の世界観を通して私たちを惹きつける「敷嶋てとら」の唯一無二の視点なのだと、腑に落ちた。
思えば、バーチャルとリアルの交差点に立ち、現実の街を歩きながらバーチャルな存在として発信する彼女のスタンス自体が、とても複雑で、矛盾をはらんだ“ディストピア的”なものだ1。だからこそ、彼女の言葉は型にハマらず、私たちの心にスッと入り込んでくる。
誰もが一律に幸せを享受する、居心地の良いユートピアではない。でも完璧ではないからこそ、訪れる人それぞれのために柔軟に形を変え、ディストピアは僕らを迎え入れてくれる。
忙しない日常に追われる人、喧騒の中で過ごす人、周囲の視線にさらされ摩耗しつつある人にこそ、この本をおすすめしたい。たまにはひとり、缶ビール片手に、ふらっと心地よい寄り道を楽しんでみてはどうだろうか。
- 付け加えるなら、VTuberである彼女自身もまた、“ディストピア的”なものに当てはまるのかもしれない。すっかり巨大で複雑なカルチャーとなり、「バーチャル」の定義も十人十色という矛盾をはらみ、常に何かが作られ、壊されている。整備されず、矛盾を抱えたまま走り続けている。それが、バーチャルYouTuberだ。 ↩︎

